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小論文 「ゆとり教育の見直し」

これは、学部4年の前期に「特別講義2」という科目があり、人数制限ありの本命の科目と重複し、履修するか検討中だったため、1回目の講義だけ受講した時に書いたものです。結局、本命の方が受講可能となったので、「特別講義2」は受講しなかったのですが...。

「特別講義2」は、当初受講するかどうか分からなかった私を含め、2人しかいなかったため、もう一人の受講者で教職課程を受講している学生に合わせ、教員試験の小論文対策となっていました。まぁ、私も教職課程を受講していましたし。

そこで、第1回目の講義で題材に挙げられたのが「ゆとり教育の見直し」。それについて時間制限(30~60分くらい?)で文字数は1,000文字でした。

以下がその条件で書いた内容です。文章を書く事を苦手としている私としては、色々と制限がある中で、よくこれだけ書けたな、と今更ながら自分で驚きです。

*ゆとり教育の見直し

戦後、学歴社会を作ってきた「詰め込み教育」を見直したのが「ゆとり教育」である。しかし、その「ゆとり教育」に問題があるとされ、現在はゆとり教育の見直しが諮られている。

「詰め込み教育」で問題視されているのは学校の学習についていけない「落ちこぼれ」である。しかし、「落ちこぼれ」も教育方針の問題ではなかったのではないのか。本当に必要なのは「落ちこぼれ」を救う教師や家庭の「ゆとり」ではないのかと思う。

一部の「落ちこぼれ」を無くし、学力の偏差を少なくするための「ゆとり教育」は最初から間違っていたといえる。必要な「ゆとり」は学力ではなく、人間の情緒面や精神面で心身共に健康に成長するための「ゆとり」が必要だと考える。それは学校での学習に関わらず、家庭と学校の連携が必要となってくる。

「ゆとり教育」で学習内容を縮小したところで、先進国である日本を維持していけるのか。また、各々の分野で世界に太刀打ちできるような人間を育成する事ができるのか。日本の中で全体的にレベルを下げ、それを標準にしたところで、世界的に見てレベルが下がっているようであれば意味がない。

また、「ゆとり教育」での学習レベルの低下が不利と考える親は子供を積極的に学習塾に行かせるであろう。そうなると本来なら学校で学習しなければならない内容を個別の学習塾などで学習する事によりますます学力偏差が発生する。これは学校教育以上の偏差を生み出しているかもしれない。

少人数制クラスの編成も学習理解度による少人数クラス編成にし、学校教育で学習内容を理解できるまで徹底的に付き合い、学習する事の楽しさや、理解する事の喜びを知る事による学習意欲の増加が望ましいと考える。

学校教育では選択科目も増加させ、最低限の科目を必修とし、自分の得意分野や興味のある分野を自分で選択し、学習を意欲を高める方が良いのではないか。学習科目にもバリエーションも必要ではないのかと考える。

私は全員が全員、同じ学習が必要ではないと考える。生徒一人一人の個性を理解、尊重し、それにあった学習が必要ではないか。

ゆとり教育で学習量を減らしたとしても学歴社会となってしまった日本では、社会の意識が変わらなければ、学習レベルを下げる意味がない。今更学習レベルを低くして何になるのか。学力による偏差はあってもいいではないか。「落ちこぼれ」がいてもいいではないか。要はどれだけ理解や意欲を上げ、「落ちこぼれ」などを救い、心身共に健康な人間を育てるかという事ではないのか。

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